2010年08月10日
静岡大空襲深紅の記憶


終戦記念日まで平和の大切さを願う気持ちで書き続ける事を御約束しまして今回で第四節になります
今回は私の母の実体験を綴りたいと思います
静岡大空襲 地獄絵図夜
その日の真夜中 静岡市上空にB-29(米軍大型爆撃機)の轟音が真っ黒な空にけたたましく響き渡っていた 大編隊である 真っ黒な空は微かな月明かりの反射を受けたB-29の銀色の機体を不気味に光らせていた
空襲警報が町中にけたたましく鳴り響き耳をつんざいた
幸代(母) 菊代(叔母) 逃げるよ 手を離したらもう終わりだから しっかり おかあちゃん(祖母)の手を握りなよ
防空頭巾を被り 布団を背中に背負わされて三人で走った
母達は 祖父を戦争に取られて祖母と双子の姉と三人で静岡市緑町で乾物屋を営み細々と戦中は生計を立て暮らしてました 母はまだ幼い保育園児でありました
米軍の爆弾の主力は焼夷弾です 爆発すると火炎の威力が物凄く爆撃地域全体を全消失する目的で投下されました 米軍は逃げ場を閉ざす為に町の周りの外周から円で囲む様に爆撃しました 結果逃げ場は無くなり火は家屋に燃え移りながら中心を目指して火力を増してゆきます 想像してみて下さい 猛火で囲まれた灼熱地獄を …
静岡大空襲の前日 幼き母と叔母は祖父から手習いで教わった踊り(日舞)を駿府公園の中にあった陸軍病院の施設を慰問で訪れ傷付いた兵隊さん達に披露しておりました 芝生の上に車座で座った笑顔いっぱいの兵隊さん達に囲まれ蓄音機から流れてくる音楽に合わせて踊ったそうです 中には故郷や我が子を思いだし泣いていた兵隊さん達もたくさんいたそうです
最初に爆撃されたのは陸軍病院でした
おかあちゃん 兵隊さんの家の方が真っ赤や …
母は子供心にも その炎を見た時は悲しくて心が潰れたと言ってました
浅間山に逃げるよ 祖母は炎と叫び声と轟音の中 二人の手を引き 引き千切れんばかりに手を引っ張り逃げました 周りでは はぐれた 子供を探す親の声 親とはぐれた子供が泣きじゃくり 助けを求める人 倒れる人 焼けてる人 が大勢いたそうです
市役所前の掘りの中は大勢の人が飛び込み 水面は 生きてるのか死んでるのか分別がつかない程 人が溢れ 爆撃の炎でその姿ははっきりと見えたとの事でした
地面は転べば火傷しそうに熱く焦げ 空気は深呼吸をすれば肺が焼けそうになり逆巻く炎は風に煽られ大きな竜の様に空高く上空に舞い上がり想像絶する光景で今でも思い出すと身震いがすると語ってました
三人は必死で何とか逃げおおせ浅間山の頂上に火傷をおいながらたどり着きました 頂上には体から焦げた匂いの煙を立ち上らせてた人達が大勢いました たどり着いた後に亡くなった方も少なからずいたそうです
頂上から見た静岡市の町中は深紅の色に染まり燃えさかっておりました
母は その後 何年もその光景が夢に出てきてうなされたと語っておりました
祖父も戦死し遺骨戻らず
母は祖父が教えてくれた踊りと兵隊さん達が涙しながら喜び観てくれた気持ちを忘れず応える為に その後 乙女の年頃にプロの劇団に叔母と共に入団し戦後復興中の日本全国を周り続けました
歳を取った母は言います
どんなに辛く悲しくても あの戦争から比べたら どうって事はないよ …
今の世の中 幸せ過ぎる と
65年前 夏 日本は
Posted by 歌舞伎 at 17:47│Comments(4)│TrackBack(0)
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この記事へのコメント
母の父親は愛知県の軍事工場で働いていました。
後少しで終戦だったのに爆弾を落とされ亡くなりました。
遺体はかろうじて残りポケットに印鑑が入っていたため身元がわかり遺骨が戻ってきたようです。
数年前に祖父(母の父親)の訓練中の写真が見付かり母の実家で見せて貰いました!
祖母(母の母親)はかなり苦労したようです。戦争中も戦後もお世話になった方々に亡くなる年までずっとお返しをしてました。
遺族年金を貰ってましたが
そんなお金で解決出来るとはおもいません。祖母は子供達や孫ひ孫達に会えばお小遣いをあげ、自分が遠出出来なくなれば人に託しお金を届けてもらってました。
戦争を経験した人が亡くなったら終わりではないと思います!語り継いでいく事が大事だと思います。
歌舞伎さん体に気をつけて下さいね
後少しで終戦だったのに爆弾を落とされ亡くなりました。
遺体はかろうじて残りポケットに印鑑が入っていたため身元がわかり遺骨が戻ってきたようです。
数年前に祖父(母の父親)の訓練中の写真が見付かり母の実家で見せて貰いました!
祖母(母の母親)はかなり苦労したようです。戦争中も戦後もお世話になった方々に亡くなる年までずっとお返しをしてました。
遺族年金を貰ってましたが
そんなお金で解決出来るとはおもいません。祖母は子供達や孫ひ孫達に会えばお小遣いをあげ、自分が遠出出来なくなれば人に託しお金を届けてもらってました。
戦争を経験した人が亡くなったら終わりではないと思います!語り継いでいく事が大事だと思います。
歌舞伎さん体に気をつけて下さいね

Posted by ニラニラ at 2010年08月10日 18:46
コメントありがとうございます 当時の人達の無念さ 悲しさを忘れたり中傷したり軽視したり無関心だったりした時が既に次の時代の悲劇の始まりだと思います 戦争は必ずそうして起こります 残念ながら人は喉元過ぎれば熱さも忘れてしまう愚かな生き物です 地球上で一番愚かな生物です しかし後世に伝える事は大切です 誰かが必ず次へ繋げてくれるはずだからです 私はそれを信じてます 戦争に限らず 人として人間として日本人として
Posted by 歌舞伎 at 2010年08月10日 22:28
珍しいとは思うのですが、私の親戚は戦時中亡くなった方が少ないんですよ…出兵した叔父達も無事に帰ってきてますし。
ただ、昭和ひとケタ生まれの伯父、小学校の頃の担任の先生の身体についていた焼夷弾の火傷の痕は、言葉では表せないものを語っていました。
旧清水市は艦砲射撃と大地震とで、かなりのダメージを受けましたが、祖父母は何故かその話をした事は無かったです。
8月14日から映画「キャタピラー」が公開されますね。
以前「ジョニーは戦場へ行った」を観た事がありますが…かなり過酷でした。
個人的には多くの人に見てもらいたいと思ってますけどね。
私の誕生日は5月15日、沖縄返還の日です。
ただ、昭和ひとケタ生まれの伯父、小学校の頃の担任の先生の身体についていた焼夷弾の火傷の痕は、言葉では表せないものを語っていました。
旧清水市は艦砲射撃と大地震とで、かなりのダメージを受けましたが、祖父母は何故かその話をした事は無かったです。
8月14日から映画「キャタピラー」が公開されますね。
以前「ジョニーは戦場へ行った」を観た事がありますが…かなり過酷でした。
個人的には多くの人に見てもらいたいと思ってますけどね。
私の誕生日は5月15日、沖縄返還の日です。
Posted by ななねこ
at 2010年08月12日 01:38
at 2010年08月12日 01:38清水は艦砲射撃を受けたのでしたね… 確か その間は防空壕からは何日も出れないで過ごした方の体験談を催しもので聞いた事を思い出しました 戦争の傷痕はいまでも色々な形で残ります そして私達はそんな悲劇を二度と迎えぬ様に努力し考え歩まなくてはならないと深く思います メッセージ ありがとうございました m(__)m
Posted by 歌舞伎 at 2010年08月19日 13:30
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